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友達が欲しいアラゴルン
アラゴルンはホビット達にこうぼやいている。
「追われる者は時として不信の目に倦み疲れ、友情をせつに望むことがある。しかしまあ、わたしは自分でも、わたしのこの人相風体ではだめだろうとは思うがね。」
旅の仲間『躍る子馬亭で』
要するに友達が欲しくなるときがあるが自分は余りに怪しげかつ怖い風体なのでダメなんだよな、とアラゴルンは言っている。「そうだね」というのが筆者の第一の感想であり、「でもそれだけじゃないと思うよ」というのが第二の感想だ。
「あなたカリスマ性ありすぎるから友人できないんだよ」というのがアラゴルンに対する筆者の意見になる。その辺りはエオメルとファラミルとを比較すると分かりやすい。
以下、その解説を述べる。
黄金のリンゴ
アラゴルンは基本的になんでもできる人である。エルフやドワーフとは比べられないが、人間としては規格外と言っていい。その優秀さこそがアラゴルンを孤独にしているのではないかと筆者は考えている。というのも、ある面白い指摘を貰ったからだ。
筆者は指輪物語を全く知らない友人にアラゴルンのことを説明したことがある。そのときの友人の感想が独創的だった。
曰く、『そいつ黄金のリンゴやから周り腐らせるな』と。
友人の言によれば、腐ったみかんも周りを腐らせるけれど黄金のリンゴも周りをダメにするのだという。というのも黄金のリンゴは万能であるがゆえに「もうあいつに全部任せときゃいいんじゃね?」と周囲に思われがちで、周囲が全部その人任せにするようになるから周りが腐るんだと。だから黄金のリンゴは周りを腐らせないことに一生懸命にならないといけないのだと友人は言っていた。
確かに。というのが筆者の感想であった。アラゴルンは周囲がついそうやって頼ってしまう人である。なにせ何でも出来るので。となればアラゴルンはたいていの人に対して自分に依存しないよう注意しながら付き合わないといけないわけで、それは疲れるだろう。
そんな風に気を回さないといけない相手と友人関係になることは難しい。アラゴルンを知れば知るほど依存のリスクは高まり、アラゴルンに親しい人は結局友人になりづらくなる。友達ができないわけである。
とは言え黄金のリンゴだから全く友達が出来ないわけじゃないと友人は言っていた。黄金のリンゴは何もしなくても腐らないタイプの人の前だと気楽で、そういう人とは友情を築くことが出来るのだと。そういう人がなかなかレアであるにせよ。
そんなわけでエルフやドワーフ、ホビットなどは元々腐らない、腐りづらい種族なのでアラゴルンとまっとうに友情を築けるのではないだろうか。筆者はここまで散々アラゴルンは友達が出来づらいと滔々と述べてきたわけだが、実際のところ彼は友人の多い人だろう。
「人間の」と条件をつけるとほぼいないというだけで。
そんな中、アラゴルンの数少ない人間の友人がエオメルなのだろうなと筆者は考える。言動を見るに、エオメルは黄金のリンゴの近くにいても腐らないタイプの人間のようだから。
するとファラミルはどうなんだろう、と疑問が浮かぶ。ファラミルも腐らない派の人であるわけで、エレッサール王も執政ファラミルを頼りにしたことと思う。しかし筆者の感覚では、彼らはなんとなく友人ではない気がしてしまうのだ。
その理由を次で述べたい。
対等性
友人が全くの対等であることはほとんどない。何らかの点において必ず上下がある。しかし互いを対等のものと思うところがなければ友情とは言えない。相手を見下げるのは論外としても、見上げすぎるのもまた友人関係の発展を邪魔するように思う。
その論拠となるのが、仙仁透氏のブログ「新・薄口コラム」の一記事『カリスマは、近しい人を不幸にする。』で展開されているカリスマ論だ。
仙仁透氏はコラムの中で、カリスマとは膨大なエネルギーを振りまく人であり、信頼するからこそ大切な人に容赦なく苦労を被せてくる人だと述べられていた。であるからこそカリスマの身内になりたいなら、カリスマの発するエネルギーに対処する能力と、カリスマに幸せにしてもらおうという目標を変えるか捨てるかの決断が必要なのだそう。
つまりそれは「カリスマの身内になるには対等の姿勢を持つことが必要」ということではないかと筆者は解釈した。
「カリスマのエネルギーに自分で対処をつける」にしろ「カリスマに幸せにしてもらうことを望まない」にしろ、それはカリスマから影響を与えられるだけの人間ではなくなる、という点においてカリスマに対して一定の対等性を有する態度だからだ。
この「対等性」の不在が、筆者がファラミルがアラゴルンの友人であったかについて断言できない点である。
なぜ筆者はファラミルとアラゴルンの関係に対等性を感じないのか。それはファラミル自身がエレッサール王の臣下であることを誇りを持って自認しているからである。なにせアラゴルンに対する第一声が
「わが殿よ、殿はわたしをお呼びでした。まいりましたよ。王は何をご下命でしょう?」
王の帰還『寮病院』
‘My lord, you called me. I come. What does the king command?’
である。起き抜けの初対面で臣下の礼をキメてきやがった。
このことからも「自分は家臣であり、王と対等の者ではない」という考えがファラミルの内にありそうだと思われてしまう。筆者からすればファラミルは十分に優れた人物であり、アラゴルンのエネルギーに対抗できるだけのエネルギーを彼自身備えていると思うのだが。
「執政は王より下」というファラミル自身の意識がアラゴルンと対等であることを阻んでいるような気がしてならない。そこにこだわらなくなれば、ファラミルは間違いなくアラゴルンの良い友人だろうと思うのだが。
そしてまたこの対等性の存在ゆえに、若年者エオメルがアラゴルンの友人であると言い切れるのである。エオメルはゴンドールの同盟国ローハンの王であり、その時点で対等性はある。しかしより重要だと筆者が考えるのは、エオメルの認識におけるアラゴルンとの関係に対する対等性だ。
黒門の戦いに赴く前、エオメルはローハン出兵の理由を明快に言ってのける。
「こういった深遠な事柄にはほとんど知識を持ち合わせませんが、それは必要ありません。わたしが知っているのは次の事だけです。そしてこれで充分です。すなわちわが友アラゴルン殿がわたしとわが民を助けてくださったことです。それゆえアラゴルン殿が呼ばれる時には、わたしはアラゴルン殿をお助けします。まいりますとも。」
王の帰還『最終戦略会議』
実にシンプルである。シンプルに、「助けられたから助ける」とアラゴルン相手に言い切った。この言葉に上下は感じられない。
実際のところ、歩く認識災害アラゴルン・エレッサールに対して「助ける」とは、なかなか言えない言葉だろう。友人だから言える言葉だ。筆者は、この対等性ゆえにエオメルはアラゴルンの友人たり得るなのだなと思っている。
王者の孤高
人間、非凡すぎても友人ができないものなのだな、というのが筆者のアラゴルンに対する評の1つである。深く愛されるがゆえに崇拝され、友情が得られにくい。「崇拝は理解から最も遠い感情」とはよく言うが、恐らく友情からも遠いのだ。
外見でまず怖がられて人が寄ってこなくて、中身を知ってもらえて仲良くなれても今度は崇拝されてしまって結局友達になれない。アラゴルンの周囲の人間関係にはこのパターンが多そうだ。
そう考えるとアラゴルンはなかなか難儀な人生を送っている。王者は孤高というが、孤立と言ったほうが近いのでは……とすら。だが得てして、優れた能力を持つ人の人生とはそんなものなのかもしれない。
この記事はTolkien Writing Day(http://bagend.me/writing-day)参加作品です。
Photo by Farid Askerov on Unsplash