易の観点からの考察

ソウルと変化と太極

ステータス画面のアイコンの1つ、ソウルを示すのだろう2つの勾玉形の何かから成る図形。

漠然とこれは両儀かなと思わんでもない。両儀、つまり陰と陽。形が陰陽太極図の陰陽図に似ている。ただステータス画面の両儀はそれぞれの中に小さな陰、小さな陽を持たないので四象にまでは変化していない。正しく両儀図だ。

この故に易に太極あり。これ両儀を生ず。両儀は四象を生じ、四象は八卦を生ず。八卦は吉凶を定め、吉凶は大業を生ず。

かくて易には陰陽未生以前の根源として太極があり、太極から陰陽の両儀を生じ、両儀はさらに分れて四象(陰陽二爻の組み合わせ、すなわち老陽・少陽・少陰・老陰)を生じ四象は八卦を生ずる。この八卦の組み合わせにより万事の吉凶が定まり、その定められた吉凶によってもろもろの大いなる事業も成就される

周易繫辞上伝 _ 易経 下 – 高田真治・後藤基巳/訳

先に挙げたように繫辞上伝には、「易に太極あり、これ両儀を生ず。両儀は四象を生じ、四象は八卦を生ず」とある。八卦のもとは老陽、少陽、老陰、少陰の四象であり、四象のもとは陰陽の両儀であり、そして陰陽を統べるものとして太極を挙げているのである。

易経 上 – 高田真治・後藤基巳/訳
太極から八卦ができるまで | 易経ネット


ステータス画面の両儀図は霧から差異が生じたという話に呼応するものだろう。そうやって易の観点で火継ぎという行いを見返してみると、なんだかマズい儀式であると思うのだ。易は変化と生成を説く。しかし火継ぎをすれば消えるべきものが消えなくなってしまい、変化が止まる。易に逆らうのだ

それでは太極とは何であるか。これについては後世の儒者の間に幾多の形而上学的論議を醸し出しているのであり、宇宙論に関する一元論と二元論との相違を生ずるのであるが、易にいうところの本来の意義を尋ねて見れば、孔穎達の正義に「太極とは天地未だ分れざるの前、元気混じて一と為るをいう」とあるのが、おそらく最も古義を得ていると思われる。この一元の気が変化してあるいは陰となりあるいは陽となって無限の作用をなすのである。ゆえに太極は陰陽を包括する大陽の気であるということができる。易の思想は陰陽を対待して說くけれども最も重んずる所は生成と発展を主とする大陽にあるのである

易経 上 – 高田真治・後藤基巳/訳

なお一言すべきことは、易の思想における陰陽の二元は、相対するものであるが、しかしながらそれは相対立して抗争しあるいは相剋するものではなくて、互いにあるいは陰と為りあるいは陽となって変化錯綜して已(や)まぬものであり、変化の中に生成と発展とがあり循環の間に調和と統整とが保たれているのである

易経 上 – 高田真治・後藤基巳/訳


易とは「世界の基本法則」を説いたもの。そして陰陽の無窮の変化こそが世界の基本法則であると易は説く。火継ぎは時間による陰陽の無限の変化を拒み「今」に固執する技術であったが、その果ては朽ちて砂漠と化した輪の都だった

世界の基本法則に逆らうのは無意味なことであるし危険なことでもあるのだとしみじみ思う。

ではなぜ火継ぎ推進勢はそんな無茶をしたか。それは恐らく彼らが望んだ『永遠』が「自分の作った世の中がずっと続きますように」という非常に人間的な永遠だったからではないかとおもう。愛しい作品達が変化し消え去っていく摂理の永遠を拒んで、「美しい今」を長く固着させることを望んだからだと。

火継ぎによってそれは確かに為し得ていた。だがそれは太極の動きを押しとどめるという無茶を続けているということでもある。だから火継ぎの世界は必然的に破綻したのだ。易に逆らうとはそういうことである。




易に逆らう神族、易の在り様そのままの人間性

人間性は変化という概念を物質化したような可能性に満ち溢れた何かである(詳細はこちらこちらにて)。そして人間性のそういった在り様は易の思想ととても相性が良い。

一陰一陽これを道と謂う

あるいは陰となりあるいは陽となって無窮の変化をくりかえすはたらき、これがとよばれる。

周易繫辞上伝 _ 易経 下 – 高田真治・後藤基巳/訳

生生これを易と謂い、象を成すこれを乾と謂い、法を効(いた)すこれを坤と謂う。数を極め来を知るこれを占と謂い、変に通ずるこれを事と謂い、陰陽測られざるこれを神と謂う

これを易に即して考えるならば、一陰一陽の道を具現し生じ生じて無窮に息むことのないはたらきを易とよぶのであり、万物生成のはじめにまずその形象を作り成すはたらきを乾、これを承けて一定の法式·法度を具えた形象を呈示するはたらきを坤とよぶのである。さらに天地の数の機能を極めつくして未来を予知すること、これが占いとよばれ、占いによってあらゆる変化に通達する行為、これが事行とよばれ、陰となり陽となる変化の予測し得ないはたらきこれが神すなわち易の神秘性とよばれるのである

周易繫辞上伝 _ 易経 下 – 高田真治・後藤基巳/訳


易において『あるいは陰となりあるいは陽となって無窮の変化をくりかえす』ことこそが道で『陰となり陽となる変化の予測し得ないはたらき』はその中で当然起こることだ。この概念はどことなく人間性が多様な変化を示す様に似る

易にはそもそも「陰陽の変化には予測不可能な部分がある」ことを前提にしている。ダークソウル世界の人間性はまさにそういった『易の神秘性』を体現する何かという側面もあるのではないだろうか。

太極の正常な運行が押しとどめられた世界の中でさえ、物事のあるべき姿、すなわち『無窮の変化』・『変化の予測し得ないはたらき』を失っていないのが人間性……なのかもしれない。

そうだとするならダクソ神族が人間性の制御にことごとく失敗しているのは実に理に適ったことである。宇宙の法則 VS 生き物の抵抗ではどうやったって前者が勝つのだから。


しかし「当たるも八卦当たらぬも八卦」(占いは当たったり外れたりするものなんだから占いの結果にこだわるな)という慣用句が、語を突き回せば易の道理を短くまとめている慣用句に化けるのは面白いことだ。

何故と言うなら「当たるも八卦(占いと事行で未来を予知したり陰陽の変化を見通すことができる)当たらぬも八卦(だが陰陽の変化は予測不能なものであり、ある程度は先の見通しが外れるのは当然)」だから。

まあこれはちょっとしたジョークなのでゆめゆめ本気にはなさらないように




「分かたれていなかった世界」は太極ではないか?

易とはどういうものかの解説書「周易繫辞上伝」によれば易とは以下のようなものであるらしい。

天地の化を範囲して過ぎしめず、万物を曲成して遺さず、昼夜の道を通じて知る。故に神は方なくして易は体なし

易は天地造化の妙用を一定の型と囲いにおさめて度をすごさせず、万物を曲(つぶさ)に完成して余すところがなく、昼夜の道すなわち陰陽・幽明・死生・鬼神の道を通じて知りわきまえる。なればこそ陰陽の神妙なはたらきは、一方一処にとどこおることなくして円通し、そのはたらきを内に蔵する易の変化にも一定の型体とてはないのである

周易繫辞上伝 _ 易経 下 – 高田真治・後藤基巳/訳

易とは陰陽・幽明・死生・鬼神の道を――すなわち「陰と陽」「幽(くら)いと明るい」「死と生」「鬼と神」の道を通じて世界の法則が滞らず循環することなのだと。そしてDS1のオープニングではこう語られている。

古い時代 世界はまだ分かたれず、霧に覆われ 灰色の岩と大樹と、朽ちぬ古竜ばかりがあった
だが、いつかはじめての火がおこり 火と共に差異がもたらされた
熱と冷たさと 生と死と そして、光と闇

火によってもたらされた差異は「熱・生・光」と「冷・死・闇」。それは「陽」と「陰」ではないだろうか(黄河文明に影響を受けた文化圏の人は多分これを感覚として理解できるのではと思う)。となれば火に因る差異と乾坤両儀の概念は近しいものであるとも考えられはしないだろうか。

ならば「まだ分かたれず」にいた世界を「天地未だ分れざるの前、元気混じて一と為るをいう」たる太極と呼ぶこともあるいは可能かもしれない。

なによりオープニングの老女はこう言っているのだ。「世界はまだ分かたれず」と。いずれは分かたれるものなのだ、あの灰色の世界は。いずれは分かたれ両儀を生ずるが未だそうではないもの。それはやはり太極と呼称してよいのではと管理人は思っている。



そして太極は両儀を生じ、生じさせたがゆえに消える……というものではない

この「生ずる」というのは太極から陰陽を生み出すというのではなく、太極の変化流行の要素を陰陽にあてて說明したものであり、太極すなわち陰陽、両儀すなわち四象、四象すなわち八卦の意味となるのである。

易経 上 – 高田真治・後藤基巳/訳

太極とは陰陽であり両儀・四象・八卦とは太極が変化する一時的な姿なのである。太極が変化してあるいは陰となりあるいは陽となって無限の作用をなすのだ、それが世界の法則なのだ、というのが易の言わんとしていることだ。


それを知ることで、DS3の「火継ぎの終わり」エンディングで火防女が語るこの言葉も当たり前のこととして理解できる。

はじまりの火が、消えていきます
すぐに暗闇が訪れるでしょう
…そして、いつかきっと暗闇に、小さな火たちが現れます
王たちの継いだ残り火が

現れるだろう、それは。火継ぎという、時間を引き延ばし太極を淀ませる行為を終わらせたのだから

ならば陰陽のあるべき循環、変化に満ちた淀まぬ巡りは再開される。八卦と四象と両儀、すなわち変化流行の太極が動き出すのだ。ならば、いつかはまた変化の一として世界には両儀(すなわち差異、差異をもたらす王たちの継いだ小さな火たち)も現れるに違いない。

そしてまた両儀は四象となり、四象は八卦となり、八卦は六十四卦となり、その目まぐるしい変化の中でいくつもの文化が栄え、そして衰えていくのだろう。易が示すとおりに。




おまけ

人間性。人間の本性。人間らしさ。それは2つのものが相反し矛盾し入り混じる、言葉通りに両儀なものであるのかもしれない。相反するものが一つの物の中にあるという意味で。

管理人はそういうことを実体験とダクソと易経と寄生獣と寄生獣ネタの論文から思った。

「他者を害したい生き物」であり「他者を害したくない生き物」であることが人間であり、その両極に自己矛盾する性を人間性と呼ぶのかもしれない。

これ以上説明するとくどくなるためか、著者は直接には何も語っていない。だが言外には、こう漏らしていることになる。つまり殺害の本能は寄生獣に遺伝的には刷り込まれてはおらず、それはあくまで、寄生獣たちが漁った人間の脳髄から伝達されたのだ、と。

分割されざる「個人」幻想への挑戦:岩明均『寄生獣』の皮膚感覚 稲賀繁美氏著

寄生生物の「攻撃性」が人間の脳からコピーされていたのは非常に悲しいことだが、その代わりに重要な事実も明らかになった。……(略)……つまり、人間は助け合う「優しさ」と殺し合う「攻撃性」を持ち合わせた動物だと言い換えることができる。

岩明均『寄生獣』論 ~田村玲子は、なぜ笑顔で死ぬことができたのか~ 漆原陸氏著





情報元
太極から八卦ができるまで | 易経ネット
易経 上/高田真治/訳 後藤基巳/訳 本・コミック : オンライン書店e-hon
易経 下/高田真治/訳 後藤基巳/訳 本・コミック : オンライン書店e-hon
分割されざる「個人」幻想への挑戦:岩明均『寄生獣』の皮膚感覚 論文 | 稲賀繁美研究室 Shigemi INAGA Academic Research Laboratory | 稲賀繁美研究室
岩明均『寄生獣』論 ~田村玲子は、なぜ笑顔で死ぬことができたのか~ 課題解決型学習(PBL) | 学びの特長 | 中央大学杉並高等学校
Dark Souls Opening Movie:ダークソウル オープニング ムービー
【PS4】DARK SOULS 3 – #76B ENDING②・火継ぎの終わりエンディング/’The End of Fire’ Ending



アイキャッチ画像:Photo by Douglas Bagg on Unsplash


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